書いてからかなり時間が経つが、前エントリー【「色々なものの見方がある」って正しいの?】に頂いたhirovisさんからのコメントに端を発して、改めて「この記事で言いたかったことは何だったんだろう?」と考えてみて、或る意味言い得ていなかった(この意味で言葉足らず)点を再認識したので書くです。
 先に断わっておくと、(全回のエントリーでも断わったので繰り返しになるが、書いてあることを読み飛ばすのか誤解する人が居るので再度)「色々なものの見方がある」という事実自体に批判を加えているのではないし、この事実を事実認識として表明する場合は、そもそも問題としていない。


 まず気付いたのは、、、「究極的には人と人は分かり合えっこない」という認識が僕にはあるという事。 こういう絶望を背負って生きているのが人間なのだ、という認識が基本的にある。
 これは、僕個人の人生観であると共に、カウンセラーとして接してきた人達の多くも、この事実に気付いた事から端を発して「生きるに難しい人生」とどう付き合っていけばよいのかが重いテーマとしてのし掛かってきた人達であった事も無関係ではない。
 この絶望感は如何ともし難く、壮絶に深い溝である。 勢い「ないこと」にして「見て見ぬフリ」をして生きていければ幸せなのかも知れない(大概の人はそうしているように思う)が、残念ながら僕には見えているし、この事実を知っている。

 と同時に、「分かり合えるなんて、そんなものは幻想だ」とニヒリズムに走るのも、安直な嘘吐きだと知っている。 「分かり合いたい」と希求する魂の欲求が、「究極的には分かり合えっこない」というのと同じくらい重大な事実として存在するからである。(「分かり合いたい」と希求する魂の声を封殺することで自分を病ましている人も多いと附記しておく)

 「究極的には分かり合えっこない」という厳然たる事実を分かり過ぎるくらいに分かっていて尚、分かり合おうとする、、、この永遠に終わらない戦いから逃げずに果敢に挑んでいく姿に「人間の美」があるのだと思っている。 これを「死に対峙する態度」と一緒だと言えば「人間の美」とまで表現するのが大袈裟でないと同意頂けるであろうか。
 「死ぬに決まっている」という意味では、勝負は端から決している。 如何なる努力をしても死からは逃れ得ぬ訳だから。 では、なぜ生きているのか? 生きようとするのか? 生きるのは何のためであるか? 端的な答えが出せる類の問題ではない事は判っている。 では、答えを出そうとする努力を放棄するのか? 否。 答えを出そうとする努力を放棄する事はイコール生きようとする事を放棄する事に他ならないから、答えの出ない答えを出そうと足掻くしか我々には選択肢は無いのである。

 だから腹が立つのである。 「色々な考えがある」と、さも知たり顔で言われると。
 知たり顔で安易にこの言葉を口にする人には、この「分かり合えっこない溝の深さ」のクリティカルさを、その絶望感の壮絶さを、たぶん知らんのだろうな、と感じる。 知らないから逆に気楽に「違う考えがある(分かり合えない溝が在る)」と口に出来るのだろうと。

 また、更に、その絶望感の大きさを知りたくないし認めたくない人達は、それを直視させられそうになると傷付けられるように感じ、逃れようとするのだろう。 実は、誰が傷付けたのでもなく最初からぽっかり口を開いている傷であるのに。
 見たくない人、認めたくない人が逃げるなら、それはそれでよい、逃げる自由はある。 ただ、その溝の深さが大したものではないように嘯くのは止めて頂きたい、と言いたいだけ。

最終更新日:2006年7月18日