「先生、わたし結婚したいんですけど...」と切り出した彼女。 「彼氏は居るんですか?」と訊けば「居ない」とのこと。 「職場に同世代の異性は居ますか?」と訊けば「居ます。 しかし同じ職場のひととは嫌です。」 お見合話は少なからずあって、会ってはみるものの「いまいちピンと来ない。」と言う...「どうピンと来ないの?」と突っ込んで訊くと「お見合のあいだ中、自分の仕事の話ばっかりで面白くないの。」確かに仕事以外に話題の豊富な人は面白いに違いありませんが、相手が仕事以外の話しをするよう働きかけたり、促したりしてるようには思えない白けた態度(仕事の話しか出来ない男のほうにも問題ありですが)、そんな態度で話しが深まるわけがなかろう、と思わせる態度で接していた事は、その話し振りから充分推察出来ます。
またお見合パーティー、合コンの類に出掛けても「今日もロクな男おらんわ!」と開始早々に戦線離脱を決め込み、片隅でポツンと飲食して終了時刻が来るのを待っている事が常態となっているらしい。
冷静に判断すれば「口で言うほどに本気で結婚したがっているのか?」と疑問が浮かぶのです。 「結婚したい!」と言っているものの、彼氏は居ない、彼を作る努力もせず、形ばかりに見合いをこなし、形だけ合コンに出掛け...仕方なし、イヤイヤだけど...という雰囲気ですね。
この「イヤイヤ、仕方無しに、本意ではないけれど、形だけなぞっている」行動様式、これから「兎に角、勉強さえすれば、良い学校に行きさえすれば、、、」と言われるがままに、その真偽を問うことなく、イヤイヤ(または、なんとなく)学校、学習塾、予備校...に通っている子供、若者達と同じ心象を想起する私はピント外れでしょうか?

実際問題、この例のように二言目には「結婚したい!」と口にする女性達の殆どは「結婚さえすれば幸せになれる!」と無批判に、現実離れした、信仰と呼ぶに相応しい思いを強く抱いています。
結婚という重大事、特にその現象面、即物的側面を考えると、出てくるネガティヴな面を乗り越えさせ、その道を選択させる動機としてスピリチュアルな面は欠かすことが出来ず、それを掻き立てるモノとしての衝動、これの源である「ファンタジー」は必要であり、これの意義の大きさを軽んじる訳にいきません。
人は生きるためにファンタジーを必要とし、と同時にそれが現実から遊離してしまい空想、絵空事になってしまう危険性は常に隣りにあります。
時に、ファンタジーというのは、日本語になった場合、多く誤解、誤用されている概念だと思うのですが...ファンタジーというのは厳しい現実認識によって支えられ、厳しい現実認識を支えるものです。 現実逃避させるかに見えて、ポイッと現実に投げ返す、こういう作用を持つもの、それがファンタジーです。 こういう作用のないものは、単なる空想、絵空事と言います。
ファンタジーを持たぬ者は現実逃避はしないにしても、現実を厳しく認識することもなく、妥協と惰性に流され生きていると思います。
あるひとの言動にファンタジー性が垣間みられた場合、そのファンタジーが「現実に投げ返すもの」を見出す努力が生きることの意味に通じる道へのガイド役になってくれると、私は考えています。
「なんで、そんなに結婚に執着するの?」と訊けば「だって、仕事嫌いやもん! 早く辞めたいもん!」
それは裏返しに表現される事が多い、という心理学的一般則に従えば、先の女性の例は「ほんとのこと言えば、、、仕事は好き! でも『おんなは、結婚してさっさと辞めるもんや!』という無言の圧力を感じる。 私の居場所はどこ?」と言っているように思えるのです。
女性が男性並に自立的、自主的に生きようとしても、依然として日本は男社会(“任務遂行上、男が優遇される仕組みが支配的社会”という意味であって、男が決定的に優れているわけではない)であり、女である事をハンデと痛感させられる場面に直面し、女である事を捨てて男の論理に服従するか、女である事を捨てず男の論理に屈服するか(さしずめ前者は「キャリアウーマン」後者は「結婚」でしょう。どちらにしても「男が敷いたレールに乗っかっている」ことに注意!)の何れか、という極端を選ばざるを得ないような呪縛に囚われの身となる。
別に女性に限ったことではなく、こういった極端な二元化の選択肢設定は、よく見られることですが、、、二元論というのは切れ味の良い名刀正宗みたいなもので、物事のある一面を鮮やかな切り口を見せてくれるのですが、どこをどう切るかを判断し誤ると、ピント外れであるのみならず、大怪我を負ってしまう危険なものです。 AかBか?という条件設定自体が適切かどうかの吟味無しに、AかBを選んでいるというナンセンスな事が屡々(特にTVの街頭インタヴューを見ているとそう思う)見られます。

こういうナンセンスな言動を取る背景には、AかBかという二元論に終始する事によって、問題の本質を避けようとする心理機制が無意識裡に働いていると考えられます。

「仕事か結婚か?」という選択肢設定は、どちらも男の論理という土俵から出ていないという事に注意を払わないといけません。
男の用意した土俵の上に居るという意味で男の論理に服従している。 この制約の中での女性の幸せが無いとは言いませんし、それを選ぶのは個人の自由です。 しかし、時代が21世紀を直前に迎え、少なからずの女性が、この土俵の外にも幸せがある事を薄々感付き出したように思います。
処が、この土俵の外というのは未開の地であり、足を踏み出すには危険極まりないのです。 さりとて土俵そのものを改変するには、男社会に真っ向から対決する事である以上に、実はそれを精神的に支えているのは女性(というより、その集合無意識複合体(コンプレックス)であるグレートマザー。特にそのネガティヴ面)であるという一筋縄ではゆかない厄介な問題を隠し持っています。

グレートマザー及び母性原理については大きな問題なので、機会を改めます。
 尚「母性社会日本の病理」河合隼雄、「タテ社会の力学」中根千枝の二冊は非常に参考になります。
過去の女性運動家、女性のオピニオンリーダー(及びそれと見なして良いその役を演じたひと)たちが、男性達よりも寧ろ同性である女性からの、理不尽とも言える攻撃によって最終的に黙さざるを得ない状況に追いやられて行った歴史が如実に、このことを物語っていると思います。 約10年前に持ち上がった「アグネス・チャン騒動」が端的な例です。
対決する相手が社会(というドレスを身に纏った日本人の集合無意識体としてのシャドウ)という大きなものである以上、個々人の力ではどうすることも出来るわけがなく、現実から逃避するか、現実に逃避するか、にならざるを得ない事は、深く省みられなければならない問題だと思います。
少々荒っぽいのを承知で、結婚を強く志向する方を「現実から逃避組」キャリアウーマンを志向する方を「現実に逃避組」と分類することが可能だと思います。(実際には、仕事一途というのが現実から逃避することになる人も居るでしょうし、現実に逃避するために結婚する人も居るでしょうから、、、) つまり表面的行動は全く逆に思える二者---キャリアウーマンを目指すひとと、結婚を選ぶひと、というのは全く正反対の違う生き方に見えて、実は底に流れている心理機制は同じであると言いたいのです。

先に「子供と同じ心象が見られる」と指摘しましたが、これはある意味当然のことなのです。 河合隼雄、中山康裕両氏をはじめ心理臨床の現場に居る多くの諸家が指摘するように、現代社会の大きい問題の一つに、「イニシネーションの喪失」というのがあります。
子供から大人になる通過儀礼としてのイニシエーションを受けていないのだから、心理的には子供であっても当たり前で、これを無碍に批判しても始まりません。
社会がイニシエーションの機会を与えてくれない以上、個々人で自らイニシエートしてゆくより仕方がないということでしょう。
このことに気付くと、「結婚したがる女たち」が、ことある毎に「結婚したい! 結婚したい! 結婚したい!」と口にする姿が、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と唱え続けることによって極楽往生を願った、かつての末法思想時代のと同じ宗教儀礼的行為であるように思えてきて仕方がないのです。

イニシエーション目的だけで結婚、急場凌ぎのイニシエーションとしての結婚、これが増えているように思うのです、これでは成田離婚が増えるのも当たり前でしょ?違いますか。

女性の場合が特に、結婚がイニシエーションの意味を持つのは、別に今に始まった事ではなく昔からスタイルと言えるので、結婚にイニシエーション的意義を求める事自体はなんら問題ないのです。 問題は、結婚にイニシエーション的意義“しか”求めないことです。 そうであれば、イニシエーションさえ終われば用済みですから離婚は時間の問題、ということになってしまいます。

また、その相手である男性はイニシエートされていない場合が殆どです。 イニシエートされた者から見ると、イニシエートされていない人は、バカで子供じみて見えることは明らかです。
結婚によるイニシエートが即効性を発揮した女性の場合は「成田離婚」、非常に時間を要した女性の場合は「熟年離婚」という事ではないか?と思います。 離婚の問題を、これだけに集約するのはあまりにも短絡ですが、一側面としては、熟慮すべきテーマだと思います。

彼女達に新たな、これからの時代に相応しいイニシエーションの機会を創出できるのなら、新たなこれからの時代に相応しい女性の生き方が、見出せるのではないか?と思っています。

この「女性のイニシエーション」について、現段階ひとつの示唆を貰っています。 それは「『神話にみる女性のイニシエーション(ユング心理学選書20)』シルヴィア・B・ペレラ著 監修:山中康裕 訳:杉田津岐子・小坂和子・谷口節子 創元社 ISBN4-422-11220-1」に拠ってです。 男性原理によって不当に貶められ、蹂躙された女性性。 これを救うのは、誰あろう、他ならぬ女性自身です。
「おんな」として生きる意味を見失いかけている貴女、是非にも読んでみて下さい。 死にかけていた貴女の半身が甦ることでしょう。



過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

最終更新日:2013年9月7日