よく議論が白熱した時、議論が白熱して収拾が付きにくくなった時によく使われる言葉と云えばよく使われる言葉ではありますが、これって何か場凌ぎというかお座なりというか誤魔化された感じがする、少なくとも私はそうでしたし、今もそうです。
 これが何故かというのがイマイチ上手く説明できなかったのです、今までは。

 お世話になっているjungnetというメーリングリストにて、Sさんという方が以下のような発言をされていた。 曰く

「いろいろな見方があるというのは一見正しいのだけれども、その実、いろいろな見方を並列に見通すような絶対的な見地から語られていて、実は単一の、上に立った見方になっている。~中略~ 「いろいろな見方がある」ことを承認した上で、ある見地においてあることを事実と見なすことも、現実の生のなかではバランス感覚として必要だと感じます。別の言い方をすれば、「いろいろな見方がある」という主張は、もっとも公平なようでいて、実は局面次第では破壊的なだけであることもある。」

というもの。
 この言葉の冒頭部分(中略より前の部分)はフッサールのものだそうですが、実に上記の理由を巧く説明してくれています。 「なるほど! そういうことだったのね」と非常に合点がいった次第です。

 「色々な見方がある」ということ、これは事実で、この事実自体をなにも否定しようというのではありません。 ただ端的に言えば『「いろんなみかた」という観点』は存在しないということ。 いろんなみかたがあるというのは『「いろんな見方がある」という状況』描写に過ぎないということ。
 ただの状況描写でしかないのを見解の代わりに(つまり見解であるかの如くに)用いられると、胡麻化しと感じるのは寧ろ当然と言えます。

 「互いに認め合う」または「互いに尊重する」とは、互いに違いがあるなら、その違いをきっちりと確認し、その「違いっぷり」とでも言いましょうか、距離感とでも言いましょうか、これを味わって満足できる態度だと私は考えます。 違う処をきちっと味わうからこそ共通点、共鳴できるものが在った時の喜びも一入(ひとしお)になるのだと思います。

 「違うこと」と「違わないこと」の両方を包含でき許容できる、こういう関係がベストだと考える私であります。

 とは言いつつも、人間には感情、情緒というものがあり、あまりに美意識、感受性に隔たりがあり過ぎる人には、どうしようもない諦めとも絶望とも言える感慨を感じるしかない時はあります。

打ち明けて語りて 何か損をせしごとく思ひて 友とわかれぬ (石川啄木)

 大好きな詩です。